2012年06月18日
記紀では分からない、「日本国の起源」■日向と大和
■ゆ~さん★のおもしろコラムだじょ~
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ゆ~さん★の歴史研究論文だぁ!
■日向と大和
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この時の大和の状況は、饒速日の崩御に伴い、皇位継承の証しである十種の神宝は、饒速日からその末娘である伊須気依姫(イスケヨリヒメ)に継承されましたが、姫がまだ幼かったので兄の宇摩志麻治尊(ウマシマジノミコト)が預かり、大和朝廷の代行政治を行っていました。
*饒速日の御陵は、大神神社(おおみわじんじゃ)のご神体、三輪山。
日向は、出雲に攻め入り属国としたその勢いで、饒速日亡き大和にも攻め入ろうとも考えましたが、大和には既に確固たる王国が築き上げられていて、饒速日仕込みの精鋭な騎馬隊がいる為、余計な血を流さずに大和を手中に収める良い方法が無いものかと思案していました。
一方、大和の宇摩志麻治も父、饒速日の出身地である出雲が、日向に武力で攻められ占領された事は知っていましたが、大和の勢力も父の時代と違い伸び悩んでいたので、日向との武力衝突は避けたいと考えていました。
そんなある日、日向から一人の使者が大和に訪れたのです。
それが大国主と多紀理姫夫婦の長男で事代主の兄である高日子根(タカヒコネ)でした。
高日子根の持ち込んだ案とは、日向と大和の連合案でした。
出雲とは残念な事に武力を行使する事になったが、大和とはできれば戦いたくない。
幸いな事に大和の相続人は伊須気依姫という女子、日向の方の相続人は伊波礼彦(イワレヒコ)という男子。もし、この二人が結婚すれば、日本の国は何の問題も無く一つにまとまるではないか。
と、高日子根は話しを持ちかけたのでした。
*伊波礼彦は後の神武天皇
高日子根は、こう述べると日向から大和への貢物として布都御魂剣(フツノミタマノツルギ)を宇摩志麻治に差し出しました。
布都御魂剣とは素佐之男の父、布都の魂が宿る神剣で、別名を十束の剣。素佐之男から大国主に移譲され、そのまま日向に保管されていたものです。
しかし、日向はもはや出雲から独立したので出雲族の神剣、布都御魂剣を日向で預かっておく理由が無くなった。だから正統な出雲の流れをくむ大和にお返ししたい。という分けです。
宇摩志麻治には高日子根の連合案を反対する理由はありませんでした。
ただ、饒速日の絶対的信奉者である老臣、長髄彦(ナガスネヒコ)だけは強硬に反対したのです。
なるほど。かつて出雲族の傘下にあった日向に従うのに我慢ならなかったのでしょう。
■神武の東遷(東征ではなかった)
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かくして伊波礼彦(後の神武)は大和に養子に入り、伊須気依姫と結婚する為に大和へと向かいました。
*連合案で日向が大和に入るのだから、この形を取る事で血を流す事無く実質権力は日向に移るのです。
*この様子は旅すがら立ち寄った数々の神社の社記に「神武天皇東遷の折り立ち寄られた」と記録されています。
日向からの旅は順調に進みましたが、大和直前の生駒にさしかかった時、突然、長髄彦軍が攻撃を仕掛けてきました。生駒はかねてより長髄彦の支配地域だったのです。
すっかり話しが付いているとものと思って武装せず旅路についた伊波礼彦たちはこの不意打ちで兄の彦五瀬(ヒコイツセ)が負傷し、その傷がもとで旅の途中で命を落としてしまいます。
仕方なく伊波礼彦一行は、紀伊半島をぐるりと迂回して熊野に入りました。
この事を知った大和では大慌てをし、宇摩志麻治は事態を治めるべく弟の天香山(アメノカヤマ)別名:高倉下(タカクラジ)を使者として伊波礼彦のもとへ遣わせました。
伊波礼彦と落ち合った天香山は、もしまた長髄彦が襲ってきたら皇位継承者の証として、この神剣を見せる様にと布都御魂剣を渡しました。
また、大和に滞在していた先の高日子根も迎えに来て、伊波礼彦が無事に大和入りできる様にと道案内を務めたのでした。
*高日子根の道案内は「記紀」では八咫烏(ヤタガラズ)として描かれています。
*伊波礼彦は、日向から養子に来た事から大和では日向御子(ヒュウガノミコ)と呼ばれていました。
*長髄彦はこの事件を起こした事で追放となり、東北に落ちのびて行きました。
その後原住民のアイヌ族と交わり荒吐族(アラバキゾク)となり、東北の地の覇者となりました。
*東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)は、荒吐族が残した史書です。
■神武の即位
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以降、無事に大和に到着した伊波礼彦一行。
大和、日向の代表者列席のもと厳かに伊須気依姫と伊波礼彦の結婚式が執り行われ、これをもって伊波礼彦が神武となり、天皇に即位しました。
この式典の一切を仕切り祭主を務めたのは宇摩志麻治でした。
布都→素佐之男→饒速日→宇摩志麻治と受け継がれてきた天皇継承の証し、十種の神宝が神武天皇に授けられ、これを以て第二次大和朝廷がスタートしたわけです。
この時から、毎年十一月二十二日(新暦)の深夜、宮中にて十種の神宝を斎き祀って鎮魂祭が執り行われる様になり、それは現在でも皇室で続いています。(出雲族の鎮魂祭)
*この鎮魂祭は毎年同日同時に布都、素佐之男、饒速日を祀る出雲族の石上神宮でも行われています。
神武天皇と宇摩志麻治は、今後即位する天皇についてある取り決めを行いました。
それは、天皇は日向族から上がり、皇后は出雲族の神裔氏族から立てるというもので、神武天皇から数えて第九代の開花天皇まで守られてきました。
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続きは、また今度~
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ゆ~さん★の歴史研究論文だぁ!
■日向と大和
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この時の大和の状況は、饒速日の崩御に伴い、皇位継承の証しである十種の神宝は、饒速日からその末娘である伊須気依姫(イスケヨリヒメ)に継承されましたが、姫がまだ幼かったので兄の宇摩志麻治尊(ウマシマジノミコト)が預かり、大和朝廷の代行政治を行っていました。
*饒速日の御陵は、大神神社(おおみわじんじゃ)のご神体、三輪山。
日向は、出雲に攻め入り属国としたその勢いで、饒速日亡き大和にも攻め入ろうとも考えましたが、大和には既に確固たる王国が築き上げられていて、饒速日仕込みの精鋭な騎馬隊がいる為、余計な血を流さずに大和を手中に収める良い方法が無いものかと思案していました。
一方、大和の宇摩志麻治も父、饒速日の出身地である出雲が、日向に武力で攻められ占領された事は知っていましたが、大和の勢力も父の時代と違い伸び悩んでいたので、日向との武力衝突は避けたいと考えていました。
そんなある日、日向から一人の使者が大和に訪れたのです。
それが大国主と多紀理姫夫婦の長男で事代主の兄である高日子根(タカヒコネ)でした。
高日子根の持ち込んだ案とは、日向と大和の連合案でした。
出雲とは残念な事に武力を行使する事になったが、大和とはできれば戦いたくない。
幸いな事に大和の相続人は伊須気依姫という女子、日向の方の相続人は伊波礼彦(イワレヒコ)という男子。もし、この二人が結婚すれば、日本の国は何の問題も無く一つにまとまるではないか。
と、高日子根は話しを持ちかけたのでした。
*伊波礼彦は後の神武天皇
高日子根は、こう述べると日向から大和への貢物として布都御魂剣(フツノミタマノツルギ)を宇摩志麻治に差し出しました。
布都御魂剣とは素佐之男の父、布都の魂が宿る神剣で、別名を十束の剣。素佐之男から大国主に移譲され、そのまま日向に保管されていたものです。
しかし、日向はもはや出雲から独立したので出雲族の神剣、布都御魂剣を日向で預かっておく理由が無くなった。だから正統な出雲の流れをくむ大和にお返ししたい。という分けです。
宇摩志麻治には高日子根の連合案を反対する理由はありませんでした。
ただ、饒速日の絶対的信奉者である老臣、長髄彦(ナガスネヒコ)だけは強硬に反対したのです。
なるほど。かつて出雲族の傘下にあった日向に従うのに我慢ならなかったのでしょう。
■神武の東遷(東征ではなかった)
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かくして伊波礼彦(後の神武)は大和に養子に入り、伊須気依姫と結婚する為に大和へと向かいました。
*連合案で日向が大和に入るのだから、この形を取る事で血を流す事無く実質権力は日向に移るのです。
*この様子は旅すがら立ち寄った数々の神社の社記に「神武天皇東遷の折り立ち寄られた」と記録されています。
日向からの旅は順調に進みましたが、大和直前の生駒にさしかかった時、突然、長髄彦軍が攻撃を仕掛けてきました。生駒はかねてより長髄彦の支配地域だったのです。
すっかり話しが付いているとものと思って武装せず旅路についた伊波礼彦たちはこの不意打ちで兄の彦五瀬(ヒコイツセ)が負傷し、その傷がもとで旅の途中で命を落としてしまいます。
仕方なく伊波礼彦一行は、紀伊半島をぐるりと迂回して熊野に入りました。
この事を知った大和では大慌てをし、宇摩志麻治は事態を治めるべく弟の天香山(アメノカヤマ)別名:高倉下(タカクラジ)を使者として伊波礼彦のもとへ遣わせました。
伊波礼彦と落ち合った天香山は、もしまた長髄彦が襲ってきたら皇位継承者の証として、この神剣を見せる様にと布都御魂剣を渡しました。
また、大和に滞在していた先の高日子根も迎えに来て、伊波礼彦が無事に大和入りできる様にと道案内を務めたのでした。
*高日子根の道案内は「記紀」では八咫烏(ヤタガラズ)として描かれています。
*伊波礼彦は、日向から養子に来た事から大和では日向御子(ヒュウガノミコ)と呼ばれていました。
*長髄彦はこの事件を起こした事で追放となり、東北に落ちのびて行きました。
その後原住民のアイヌ族と交わり荒吐族(アラバキゾク)となり、東北の地の覇者となりました。
*東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)は、荒吐族が残した史書です。
■神武の即位
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以降、無事に大和に到着した伊波礼彦一行。
大和、日向の代表者列席のもと厳かに伊須気依姫と伊波礼彦の結婚式が執り行われ、これをもって伊波礼彦が神武となり、天皇に即位しました。
この式典の一切を仕切り祭主を務めたのは宇摩志麻治でした。
布都→素佐之男→饒速日→宇摩志麻治と受け継がれてきた天皇継承の証し、十種の神宝が神武天皇に授けられ、これを以て第二次大和朝廷がスタートしたわけです。
この時から、毎年十一月二十二日(新暦)の深夜、宮中にて十種の神宝を斎き祀って鎮魂祭が執り行われる様になり、それは現在でも皇室で続いています。(出雲族の鎮魂祭)
*この鎮魂祭は毎年同日同時に布都、素佐之男、饒速日を祀る出雲族の石上神宮でも行われています。
神武天皇と宇摩志麻治は、今後即位する天皇についてある取り決めを行いました。
それは、天皇は日向族から上がり、皇后は出雲族の神裔氏族から立てるというもので、神武天皇から数えて第九代の開花天皇まで守られてきました。
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