2012年06月12日
記紀では分からない、「日本国の起源」■民族の移動と定着
■ゆ~さん★のおもしろコラムだじょ~
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世の中に歴史書って沢山あるでしょ~。でも、現在残って語り継がれている歴史ってさ、勝者の歴史なんだよね。
つまり、その時勢の権力者に都合よく改竄されているわけだ。
それでね、僕ね、自分のルーツである日本の成り立ちに興味があってね、これまで色んな文献を読み漁って研究してたんだ。
本当はどんなだったのか?史実を暴こうと。
このシリーズは、そんな僕の研究論文でござんス。
■はじめに
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日本国の起源を探究するとき、官選の史書として「古事記」と「日本書紀」を避けて通る事はできません。しかし、この「記紀」は神話の形態を取っている部分がとても多いので物語としては面白く読めますが、実際に何があったのか? といった史実を掴むには程遠いものとなっています。
しかし、幸いな事に我が国にはこの「記紀」以外にも史実を伝える古文書が多数あり、それらが伝える内容は驚く程共通していて一貫性があるのです。
*全国各地にある神社の社記、旧事本紀(くじほんぎ)、先代旧事(せんだいくじ)、各地方に伝承される風土記(ふどき)、焚書を免れた古文書の数々、東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)、魏志倭人伝・・・
それでは、これらをもとに「古事記」と「日本書紀」を読むだけでは分からない日本国の起源を辿ってみましょう。
■民族の移動と定着
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太古の日本は今の形とは随分と違い、大陸とつながっていました。
その後、度重なる地殻変動を経て本州は大陸から切り離されましたが、九州はまだ大陸とつながっていた時代がありました。
この頃、既に九州や本州には人が住み着いていていましたが、各地に点々と小さな集落があるといった程度で、国の片鱗すら存在しない状態でした。
時を同じく、ユーラシア大陸ではイスラエルからモンゴルへと東へ東へ狩猟系騎馬民族の大移動が起こり、やがてその一部が二手に分れ、その一つが陸路でに九州(日向)に。もう一つが海路で現在の島根県(出雲)へと流れて来ました。(ルーツはユダヤの失われた十二枝族です)
■出雲族(国津神)と日向族(天津神)
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この2つの狩猟系の流入民族は大変力が強く、九州においては先住民、球磨族(くまぞく)と囎唹族(そおぞく)=熊襲(くまそ)を南に押しやり、九州に日向族:天津神(あまつかみ)として定着しました。
また、島根に入った流入民族は先住民、アイヌ族を東北へと押しやり、出雲族(大和族):国津神(くにつかみ)として定着したのです。
■日本の建国
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出雲(島根)に入った出雲族:国津神の長は、布都(フツ)と言い、その子供である布都斯(フツシ)と共に出雲を制覇しました。
*布都斯は、出雲名を素佐之男尊(スサノオノミコト)と言います。
この後、布都は布都斯とその子供、布留(フル)に九州を制覇するよう命じました。
*布留は、出雲名を饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)と言います。
この頃の九州は、日向族、天津神である伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)の国があり、この二人の間には大日霊女貴尊(オオヒルメムチノミコト)後の天照(アマテラス)がいました。
当時、布都、布都斯、布留の系譜から成る出雲族は馬具、鉄製の刀、鎧などの軍備で圧倒的な軍事力を誇っていて、その力は戦をする事無く各地を無血平定する程でした。
その事は日向にも轟いていて、勢力を伸ばす出雲との戦は得策では無いとの判断から日向は大日霊女(後の天照)を素佐之男に差し出す事で和睦の道を選び出雲の傘下に下りました。
*天照はこの時既に結婚していて子供もいましたが、当時は一夫一婦制では無かった。
こうして天照は素佐之男の日向における現地妻となり、二人の間には3人の女子ができました。
日向を無血平定した出雲族二代目の大王、素佐之男は次に大和(現在の奈良)への進行を計画し、その任を子供である饒速日に命じました。
大和は日本一の盆地であり、最高最大の米の生産地であった事から、当時、大和を制する者は日本を制すると考えられていたのです。
饒速日もまた祖父の布都と父、素佐之男の器量を余す事無く受け継いでいて、見事に大和を無血平定しました。
この時、年老いていた素佐之男は自分の名代として大和の地の全権を饒速日に委任し、その証しとして十種の神宝(とくさのかんだから)を授けました。
*十種の神宝の授与は、皇位継承を意味します。この儀式は第十代の崇神天皇まで続けられており、当時は三種の神器ではなかったのです。
*十種の神宝=天璽の瑞宝の十種(あまつしるしのみづたからのとくさ)
その後、程なく大王・素佐之男はこの世を去り、その亡骸は島根県八雲村の熊野山に造られた磐座(いわくら)に葬られました。これが、和歌山県の熊野をはじめ全国に三千数百もある熊野神社の発祥です。
出雲に入り国造りの基礎を作った布都。領土を出雲から日向族の九州ほぼ全土に広げ無血平定し、九州と出雲を統治した日本建国の祖、素佐之男。
最大の要所、大和を無血平定の後統治し朝廷を開いた初代天皇の饒速日。
饒速日の正式名は、天照国照彦天火灯櫛玉饒速日尊:アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコトと言います。
この名前からも分かる様に天照大御神は実は饒速日の事であり、アマテラスは男神なのでした。
記紀の神話「岩戸隠れ」でアメノウズメが官能的な裸踊りをしたのはこの為です。
日向の国の大日霊女貴尊(饒速日の日向における現地妻)が後に天照と呼ばれる様になったのは500年以上も後の奈良時代からと言われています。
*日霊女を天照にすり替えたのは、後に天下をとる日向族です。
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ね、スサノオやアマテラスの関係が、記紀に書かれているのと全然違うでしょ?
あと、三種の神器とかも~。本当は十種の神宝なんだよね。
ハイ。この続きは~次回です。
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世の中に歴史書って沢山あるでしょ~。でも、現在残って語り継がれている歴史ってさ、勝者の歴史なんだよね。
つまり、その時勢の権力者に都合よく改竄されているわけだ。
それでね、僕ね、自分のルーツである日本の成り立ちに興味があってね、これまで色んな文献を読み漁って研究してたんだ。
本当はどんなだったのか?史実を暴こうと。
このシリーズは、そんな僕の研究論文でござんス。
■はじめに
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日本国の起源を探究するとき、官選の史書として「古事記」と「日本書紀」を避けて通る事はできません。しかし、この「記紀」は神話の形態を取っている部分がとても多いので物語としては面白く読めますが、実際に何があったのか? といった史実を掴むには程遠いものとなっています。
しかし、幸いな事に我が国にはこの「記紀」以外にも史実を伝える古文書が多数あり、それらが伝える内容は驚く程共通していて一貫性があるのです。
*全国各地にある神社の社記、旧事本紀(くじほんぎ)、先代旧事(せんだいくじ)、各地方に伝承される風土記(ふどき)、焚書を免れた古文書の数々、東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)、魏志倭人伝・・・
それでは、これらをもとに「古事記」と「日本書紀」を読むだけでは分からない日本国の起源を辿ってみましょう。
■民族の移動と定着
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太古の日本は今の形とは随分と違い、大陸とつながっていました。
その後、度重なる地殻変動を経て本州は大陸から切り離されましたが、九州はまだ大陸とつながっていた時代がありました。
この頃、既に九州や本州には人が住み着いていていましたが、各地に点々と小さな集落があるといった程度で、国の片鱗すら存在しない状態でした。
時を同じく、ユーラシア大陸ではイスラエルからモンゴルへと東へ東へ狩猟系騎馬民族の大移動が起こり、やがてその一部が二手に分れ、その一つが陸路でに九州(日向)に。もう一つが海路で現在の島根県(出雲)へと流れて来ました。(ルーツはユダヤの失われた十二枝族です)
■出雲族(国津神)と日向族(天津神)
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この2つの狩猟系の流入民族は大変力が強く、九州においては先住民、球磨族(くまぞく)と囎唹族(そおぞく)=熊襲(くまそ)を南に押しやり、九州に日向族:天津神(あまつかみ)として定着しました。
また、島根に入った流入民族は先住民、アイヌ族を東北へと押しやり、出雲族(大和族):国津神(くにつかみ)として定着したのです。
■日本の建国
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出雲(島根)に入った出雲族:国津神の長は、布都(フツ)と言い、その子供である布都斯(フツシ)と共に出雲を制覇しました。
*布都斯は、出雲名を素佐之男尊(スサノオノミコト)と言います。
この後、布都は布都斯とその子供、布留(フル)に九州を制覇するよう命じました。
*布留は、出雲名を饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)と言います。
この頃の九州は、日向族、天津神である伊弉諾尊(イザナギノミコト)と伊弉冉尊(イザナミノミコト)の国があり、この二人の間には大日霊女貴尊(オオヒルメムチノミコト)後の天照(アマテラス)がいました。
当時、布都、布都斯、布留の系譜から成る出雲族は馬具、鉄製の刀、鎧などの軍備で圧倒的な軍事力を誇っていて、その力は戦をする事無く各地を無血平定する程でした。
その事は日向にも轟いていて、勢力を伸ばす出雲との戦は得策では無いとの判断から日向は大日霊女(後の天照)を素佐之男に差し出す事で和睦の道を選び出雲の傘下に下りました。
*天照はこの時既に結婚していて子供もいましたが、当時は一夫一婦制では無かった。
こうして天照は素佐之男の日向における現地妻となり、二人の間には3人の女子ができました。
日向を無血平定した出雲族二代目の大王、素佐之男は次に大和(現在の奈良)への進行を計画し、その任を子供である饒速日に命じました。
大和は日本一の盆地であり、最高最大の米の生産地であった事から、当時、大和を制する者は日本を制すると考えられていたのです。
饒速日もまた祖父の布都と父、素佐之男の器量を余す事無く受け継いでいて、見事に大和を無血平定しました。
この時、年老いていた素佐之男は自分の名代として大和の地の全権を饒速日に委任し、その証しとして十種の神宝(とくさのかんだから)を授けました。
*十種の神宝の授与は、皇位継承を意味します。この儀式は第十代の崇神天皇まで続けられており、当時は三種の神器ではなかったのです。
*十種の神宝=天璽の瑞宝の十種(あまつしるしのみづたからのとくさ)
その後、程なく大王・素佐之男はこの世を去り、その亡骸は島根県八雲村の熊野山に造られた磐座(いわくら)に葬られました。これが、和歌山県の熊野をはじめ全国に三千数百もある熊野神社の発祥です。
出雲に入り国造りの基礎を作った布都。領土を出雲から日向族の九州ほぼ全土に広げ無血平定し、九州と出雲を統治した日本建国の祖、素佐之男。
最大の要所、大和を無血平定の後統治し朝廷を開いた初代天皇の饒速日。
饒速日の正式名は、天照国照彦天火灯櫛玉饒速日尊:アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコトと言います。
この名前からも分かる様に天照大御神は実は饒速日の事であり、アマテラスは男神なのでした。
記紀の神話「岩戸隠れ」でアメノウズメが官能的な裸踊りをしたのはこの為です。
日向の国の大日霊女貴尊(饒速日の日向における現地妻)が後に天照と呼ばれる様になったのは500年以上も後の奈良時代からと言われています。
*日霊女を天照にすり替えたのは、後に天下をとる日向族です。
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ね、スサノオやアマテラスの関係が、記紀に書かれているのと全然違うでしょ?
あと、三種の神器とかも~。本当は十種の神宝なんだよね。
ハイ。この続きは~次回です。